ようこそ久田見高原へ!

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なんでモアール

八百津町 八百津町

 八百津町は岐阜県の東南部に位置し、海抜120メートル前後の盆地平野と、木曽山脈に連なる海抜500メートル前後の山岳地帯からなっています。

 豊かな自然に恵まれ、飛騨木曽川国定公園に指定されています。総面積は128.95平方キロメートル、その81.5パーセントを山林が占める農山村都市です。

久田見祭り

今年(平成14年)の「久田見祭り」4月21日(日) 開催です。

是非、「久田見祭り」見物にきてください。 この日だけは、年に一度きり、うちの店の前を数千人の人が通ります。 祭りの会場の神社はうちの店から20mも離れてません。結構見ごたえある 祭りですよ。


糸切りからくり

 花山車の舞台の上では、独創的な人形劇(からくり)が繰り広げられる。

 この人形劇の動きの秘密は、「糸切りからくり」という独特な技法にあり、歴史的、芸術的な価値も高く評価れている。 
 このからくりは、毎年各山車一両ごとに製作するように定められており、したがって毎年出し物が変わり、それぞれ極秘に製作されたものが、祭り当日初めてお披露目される。また、この「糸切りからくり」の技術はすべて秘密で門外不出となっており、細部については公表されていない。

 この技術は、古老から若者へ脈々と語り継がれている。
糸切りからくり人形  毎年4月の第3土曜・日曜に、久田見の産神土神(うぶすながみ)の神明・白鬚両神社で行われます。 見ものは、6両の絢爛華麗な山車と、山車の上でくりひろげられる「糸切りからくり」人形。

「糸切りからくり」は国の選択無形民族文化財・岐阜県の無形文化財に指定されています。
 
人道の丘公園  ・・・八百津町が杉原千畝を記念して作った公園です。
杉原 千畝(すぎはら ちうね)杉原 千畝 (すぎはら ちうね)

 あなたはミスター・スギハラの名前を知っているでしょうか。

 世界中のユダヤ人から日本のシンドラーと呼ばれて全世界の人たちから尊敬の念をむけられている八百津町出身の外交官。1940年7月27日、第2次世界大戦のさなか、リトアニアの日本領事代理をしていた杉原は異様な雰囲気の中で目を覚ましました。
 領事館から外を見ると周囲をたくさんの人がとりまき、血走った目をして何かを叫んでいます。すべてがユダヤ人。ナチスの迫害から逃れるため、日本の通過ビザを求めて集まってきた人々でした。


 前年にはナチスドイツがポーランドに侵攻、イギリス、フランスがドイツに対して宣戦布告をして戦火はヨーロッパ中に拡大。ナチスはユダヤ人を捕まえて次々と強制収容所に送り込んでいました。収容所に入れば悲惨な運命が。大量虐殺・・・ホロコースト。

そのナチスから迫害の魔の手を振り切ってきたユダヤの人たちが杉原のもとに押しよせたのです。

 当時のユダヤ人たちの逃げ場はたったひとつ。オランダ領キュラソー島。しかし、ここに行くためにはソ連、日本を通過する以外道はなかったのです。このとき日本とドイツは同盟関係。ユダヤ人を助ければドイツに対する裏切り行為になります。

 杉原はビザ発行の許可を得るために日本の外務省に電報を打ちますが返事はありません。何度も何度も打った結果、やっと返ってきた回答は「ノー」。


 「私の一存で彼らたちを救おう。そのために処罰をうけてもそれは仕方がない。人間としての信念を貫かなければ」


人道の丘モニュメント
 決心した杉原は、それから懸命にビザを書き続けました。腕が腫れあがり、万年筆がおれても杉原は書き続けました。こうして救われたユダヤ人の数は6千人とも8千人ともいわれ、世界中のユダヤ人の胸にはミスター・スギハラの名前が深く刻みこまれました。

 戦争が終り、帰国した杉原を待っていたのは独断でビザを発行したことの責任による外務省からの解職。1968年、杉原の許へ1人のユダヤ人が訪れてきます。彼はボロボロになった当時のビザを手にして涙をこぼして杉原に礼の言葉をのべたのです。



 「ミスター・スギハラ、私たちはあなたのことを忘れたことはありません。」


人道の丘

  世界中のユダヤ人たちは杉原のことを捜し続けていたのでした。1985年には「諸国民の中の正義の人」としてイスラエル政府から表彰されています。

 杉原千畝。1900年1月1日、八百津町で誕生。小さい頃からおとなしくて優しい性格。それでいて一度自分で決めたことは必ずやり通すという熱血漢・・・ミスター・スギハラ。ユダヤの人たちはこの名前を決して忘れることはないでしょう。


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